ぽち袋   浴衣   半纏
  千社札   木札
  手拭   巻帯
>> ぽち袋   根付
  扇子   合財袋
  祝儀袋   煙草入

弥六の蘊蓄 【ぽち袋のルーツ】

ぽち袋の「ぽち」とは「コレっぽっち」という言葉 から来ているという説が今のところ有力だそうで・・・紙の袋に絵柄を描くというルーツを探ると、江戸時代、山東京伝が煙草用の包装紙に「判じ絵」を印刷したというのがコトの始めとか。「判じ絵」とは、文字と絵を使って、駄洒落を表現する遊びのコトですナ。
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価 格/105円(1枚)
サイズ/長さ:96mm 巾:60mm
素 材/和紙(奉書紙)
オーダー/20枚より承ります
納 期/3〜5日
 ※封緘シール付き
形式にとらわれず、貴方だけのオリジナルな図案や名入れで粋に遊ぶ「ぽち袋」。ちょっとした心づけやお礼などを渡す時、気軽にお使い下さい。指定ロゴやマーク、大紋等の図案のお持ち込みによるオーダーも可能です。
・三社祭氏子四十四か町半纏ぽち袋・
(名入れ承ります)



・オリジナル定番柄三種入りセット・

↓【巴柄三種入り】525円(抹茶・薄茶・ピンク)

↓【網柄三種入り】525円(緑・紺・柿茶)

↓【網柄三種入り】525円(抹茶・鴇・浅葱)

↓【舞踊三種入り】525円(汐汲・申酉・越後獅子)

↓【舞踊三種入り】525円(浅草祭・藤娘・岸の柳)

※季節により予告無く図柄を変更する場合がありますので予めご了承下さい。

|||江戸っ子列伝@ 葛飾北斎

宝暦十年(1760年)9月、本所割下水で生まれ、(本所は旧葛飾郡であったため「葛飾」を名乗った。)嘉永二年(1849年)四月十八日、浅草聖天町で90歳の天寿を全うした。その生涯は、晩年自らを「画狂人」と称したように、まさに絵を描くためにのみ授かった命という感すらあり、全発表作品は三万点を越える。
絵以外の万事に無頓着、淡白、純粋であり、数々の奇行に満ち溢れていた。90年の生涯に30数回に及ぶ改名、93回に及ぶ転居などが挙げられる。若い頃は別として、名を成してからの北斎は、浮世絵の第一人者として群を抜いた人気を博し、並みの絵師の画料が絵本一丁金二朱どまりだったのに対し、倍の金一分であった。しかし、酒も飲まず、煙草も吸わず、衣服といえば絹物や流行物は身につけず、手織りの木綿物。赤貧を洗うがごとき私生活は変わらなかった。というよりは金銭に対しても恬淡としており、執着が無かったのかも知れない。 転居については、北斎自身「幕府の表坊主に、寺町百庵という人がいて、この人は自分から百庵と名乗っているだけあって、実際すでに90回以上引っ越ししている、これには俺も敵わない」と、笑いながら人に語っている。 改名については、先に記したとおりだが、主なものをあげると、絵師として...勝川春朗・群馬亭・菱川宗理・辰斎・辰政・画狂人・卍老人など。戯作者としては時太郎・可候・魚仏・是和斎などの雅号を用いた。
一説に撚れば、自ら新天地を開くと改名し、貧困が極まると門弟に名を譲ったらしい。
北斎の父は、幕府御用達の鏡師で、中島伊勢といい、母は吉良上野介の家臣小林平八郎の孫娘であった。北斎は幼名を時太郎といい、十歳のとき鉄蔵と改め、十四、五歳のころ彫刻師に弟子入りして、洒落本などの挿絵の版下を彫っていた。貸本屋の小僧時代、暇を盗んでは本を読み耽り、絵を自習したという。

***

ものに拘らぬ奔放さ、打算を考えぬ純粋さ、初念を貫こうとする真摯さが横溢していて、個性的で甚だ魅力的な人柄であるが、こうした強烈な桁はずれな個性は、当時の確固たる封建制下の世間一般常識から見ると、単なる「変わり者」と目されていたに違いない。それでも周囲の思惑や白眼視などは一向に意に介さず、時候の挨拶などもろくにしなかった。画室入口にも「お辞儀無用・お土産無用」の札が貼られており、虚礼を蔑視していた。
また北斎は大変なアイデアマンであった。11代将軍家斉が鷹狩りの帰途、浅草伝法院で休憩した折り、谷文晁と北斎に命じ席上画を描かせたことがある。文晁が先に描き、次ぎに北斎が描いたのだが、彼は先ず長く継いだ紙を横にして藍を長く引いた。こうしておいて引っ提げてきた籠の中から鶏を掴み出し、その足に朱肉をつけるややにわにこれを紙上に放ち「龍田川の風景なり」と言上した。先に引いた藍は龍田川 、鶏が朱でつけた足跡は、その流れに散る紅葉を示すというわけであった。   -つづく-

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