木  札   浴衣   半纏
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  手拭   巻帯
  ぽち袋   根付
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  祝儀袋   煙草入

弥六の蘊蓄 【火事と喧嘩は江戸の華】

どーけどけどけぃ!  勢い込んで一番先に火災現場に駆け付けた江戸町火消しが、延焼を止めた(消し口を取る、と言う)印として組の名を記した札を掲げる。これを纏と共に火消しの心意気を込めて「消し札」と呼んだんデス。以来、火難、災厄を免れるお目出たい縁起物として 江戸庶民の間で流行したのです。今じゃ色々な形にアレンジされて「江戸の粋」が脈々と伝えられてるってワケです。
  商品のご案内

価 格/ 仮名 一文字3,150円 二文字4,200円 三文字5,250円より
     漢字 一文字4,200円 二文字5,250円 三文字6,300円より
サイズ/二文字札 長さ:約38〜42mm*巾:約15〜17mm
    三文字札 長さ:約50〜58mm*巾:約15〜17mm
素 材/天然木・ケミカルウッド等
オーダー/1枚より承ります
納 期/2〜3週間前後(※お問い合せ下さい)
    ※全て根付け紐付き
書き札もシンプルで良いのですが、端虚堂の木札は"ひと手間"かけた「彫り札」です。 手彫りならではの味のある文字を、しっとりとした塗りで、ひとつひとつ粋な札に仕立てます。 書体は勘亭流を基本として、寄席文字、籠文字やお手持ちのオリジナル書体のご注文もお受け致します。
機械彫りには決して真似の出来ない「手仕事・深彫り」の味わいをお楽しみ下さい。

※木札本体色は、朱赤、黒、木肌(クリア)の三色です。
※根付紐は朱赤と黒の二種類ご用意しておりますので、お好みでお選び下さい。


|||十番組の喧嘩

弘化二年(1845年)3月5日夜、京橋南紺屋町において、奉公人の煙草の不始末が原因で、河岸の納屋より出火。あたり約800坪を消失する火事がありました。当時の火災としては、さほど大きな規模ではなかったのですが、かなり離れたところからも町火消しが大勢駆け付け、消火にあたりました。その折、十軒店で九番組と十番組との間に喧嘩がおこり、双方に怪我人が出たのです。
また、翌6日夕刻にもその近くから火事がおこりました。火がまもなくおさまり、さて、引き揚げようというときになり、またしても九番組と十番組との間で乱闘騒ぎが起きたのです。
『浮き世の有様』という記録によれば、「日本橋辺にて聊かの失火ありしに、九番組と十番組の火消し大喧嘩をなし、両方にて人数三千人ばかり、其の辺の町屋の屋根瓦悉く引きまくり、互いにこれを投げうち、鳶口にて打ち合いしにぞ、死者、怪我人仰山の事にて、大騒動せしと云う」とあります。

この記事のほかにも、似たような事件があり、混同、誇張されて伝えられたのかも知れませんが、この時期このような町火消し同士の抗争は数え切れないほど江戸各所において発生していたのです。
ところで、江戸市中の消防体制強化のため、享保三年(1718年)町火消しが組織されたことはよく知られています。浅草は、平右衛門町・元旅籠町・元鳥越町あたりが八番組の「ほ組」とされただけで、その他は全て十番組に属しました。全てあげれば下記の通りとなります。

と組・・・浅草黒船町・諏訪町・田原町
ち組・・・浅草馬道町・花川戸町・田辺町
り組・・・浅草今戸町・新鳥越町・山谷浅草町
ぬ組・・・下谷金杉・龍泉寺町・通新町
る組・・・下谷車坂町・御切手町・金杉上町
を組・・・浅草阿部川町・下谷町・辻番屋敷・大工屋敷

町火消しが誕生した当初、火消し人足は、その町の町人(実際は店借りや奉公人)があたることになっていましたが、破壊消防を主とする当時の消火活動では素人では役に立たず、幕末に近い天保・弘化ごろには、そのほとんどは、その専門家とも云うべき鳶人足になっていたのです。彼等には町毎に人足を定めて抱えられ、各組こどに頭取・小頭・纏持ち・梯子持ち・平人足という階層があり、町内から給金をもらうとともに、半纏、頭巾、股引などを支給され、火事で出動したときは手当が貰えることになっていました。
各組の団結は強く、幕府直属の定火消しや大名火消しよりも、江戸の町に果たす役割が急激に高まりました。それだけに、定火消しや大名火消しとの抗争も彼等の存在の誇示だったと言えるでしょう。
天明二年(1782年)「と組」と「を組」の町火消しと秋田佐竹家の大名火消しとが、下谷七軒町の火事で消し口を争い、佐竹家側に非があるとして重い処分を受けた事件を始めとして、文化六年(1809年)から同八年にかけては、日本橋、神田辺の一番組と、それを助ける京橋、芝辺の二番組に対して、上野・本郷の八番組、根津の九番組、それに十番組が連合してたびたび抗争事件を起こし、今まで寛大な対応をしてきた町奉行所も捨て置けず、頭取四名の遠島を含む百二十八名を処分するという事件もありました。
文化年間の一、二番組との争いでは手を組んでいた八、九、十番組も、天保改革期には三者の間で互いに大喧嘩を起こしています。天保三年(1842年)三月、品川宿の火災に出動した八番組の外神田「加組」が、本町の四つ角にて「た組」と「わ組」と待ち合わせて詰めていたところ、十番組「を組」が通りかかり、挨拶が無かったということで後続の「と組」と喧嘩になりました。「と組」は不意をつかれた格好となり、激しく抵抗しましたが纏持ちが死亡し、纏も壊されてしまったのです。
この結果、八番組は十一名、十番組は十二名が入牢し、双方手鎖預けなどの処分を受けたのです。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉はよく聞かれる言葉ですが、これが広く使われるようになるのは、丁度弘化・嘉永の頃から。喧嘩と云えば、町火消しの喧嘩をさすものとなっていたと思われます。江戸成立以来二百年以上が経過し、各町にはそれぞれ町の雰囲気や独自の気質が形成され、各町の対抗意識のようなものも醸成されていたと推定されます。各町、各組に曙属する火消したちは、その雰囲気や気質を背景として互いに張り合ったのです。町人たちはそのような火消しの行いを、ときには苦々しく思いながらも他方では自らの対抗意識を代弁するものとして、陰ではそれをかばうようなことも多かったわけです。
それゆえ文化二年に芝神明社内で起きた、所謂「め組の喧嘩」のように、美化された形で歌舞伎や講釈などに取り上げられると、人々の喝采を受けたのです。このころ、団十郎・河岸の若い衆と並んで江戸っ子の代表とされ、「江戸の三男」のひとつに謳われた町火消しは、いわばその虚像の部分が誇張されたとも言えるのではないでしょうか。  -つづく-

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